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世間一般で教えられている成功によって殆どの場合、幸福を得られる訳ではない事をこのコンテンツで理解していただければ幸いです。

私たちは他人の人生を生きていることに気が付いていない

『心で見なくちゃ、
ものごとはよく見えない。

かんじんなことは、
目に見えないんだよ』

大切なことは目に見えない2

BOSS一番大切にしていた言葉です

セネカ
セネカ

『他人のために生きるほど惨めな人生はない

あとは、結論部を引くだけでいいだろう』

ガリレオガリレイ
ガリレオガリレイ

『物事には見えないものがある。それこそが重要なのかもしれない』 ㅤ

『見えないと始まらない。見ようとしないと始まらない』

『あらゆる真実は一度発見されれば
理解するのは容易だ。
肝心なのは真実を発見することだ』

『それでも地球は動いている

・・・・・・

人は見たいものしか、見ない

見たくないものは、見ないようにする

見たくないものが、その人にとって必要なものである場合が多いのですが

見たいものだけを見ていると、大切なものを失ってから気が付いたりする羽目に陥ります。

その人の事を心から思って色々と言ってきたり、面倒見たりしてくれる人は

色々と聞きたくないことを言って、見たくない現実を見るように一生懸命に諭すかもしれません。

目を背けたくなるような自分の過去や現実の中に、幸福の種が蒔かれていたりします。

臭い物に蓋をしても、臭いままです。

放置された聞きたくない見たくない自分の過去や現実の中に、幸福の種が隠されているのかもしれません。

耳は二つあるのは何故か。 それは自分が話す倍だけ他人の話を聞かなければならないからだ。

確か、ユダヤ人のタルムードに書かれてあった言葉だと記憶していますが・・・違うかも

「心」はだれにも見えない

ㅤけれど
ㅤ「心遣い」は見える
ㅤ「思い」は誰にも見えない
ㅤけれど
ㅤ「思いやり」は見える
ㅤあたたかい心も
ㅤやさしい思いも
ㅤ行いによってはじめて見える
ㅤあたたかい心が
あたたかい行為になり
やさしい思いが
やさしい行為になるとき
「心」も「思い」も
眼には見えなかった思いが形となって相手に伝わる
想いは伝えてこそ 生きる

人が人に思いを伝える事こそが、生きるということだ

世界で最も美しく高価な音色にさえも簡単に見逃してしまう

ジョシュア・ベル 4億2千万円のバイオリン
ジョシュア・ベル 4億2千万円のバイオリン

1月の寒い朝、ワシントンDCの地下鉄の駅に座ってバイオリンを弾き始めた男がいた。彼はバッハの6曲を約45分間弾き続けた。

その時間帯は通勤ラッシュ時であったため、通勤途中の人を中心に1,100人ほどが駅を通過した。

3分ほど経った頃、ある中年男性が音楽家に気づき、歩みを緩めて数秒間立ち止まったが、その後、遅れないようにまた歩き始めた。

1分後、婦人はお金を投げて、バイオリニストは最初の1ドルを受け取り、婦人はまた歩き始めた。

数分後、誰かが壁に寄りかかって聞いていたが、時計を見て、また歩き始めた。
仕事に遅れそうだった。

一番関心を示したのは、3歳の男の子だった。
お母さんに手を引かれて急ぐが、その子は立ち止まってヴァイオリニストに見入っている。
しかし、その子は立ち止まってヴァイオリニストを見つめ、母親がさらに強く引っ張ると、何度も振り向きながら歩き続けた。

そういった光景は、他の何人かの子供たちにも繰り返された。
親は例外なく、子供たちを無理やり進ませた。

演奏が止まり、静寂が訪れたとき、誰も気づかなかった。
誰も拍手もしないし、誰も彼に気が付かなかった。

このバイオリニストが、世界で最も才能ある音楽家の一人、ジョシュア・ベルが演奏していたことに1097人中、ベルだと気付いたのは1人だけ!

彼は4億2千万円のバイオリンで、これまでに書かれた中で最も精巧な曲を演奏したのだ。

43分間演奏した結果は・・・・・通り過ぎた1097人中、ベルだと気付いたのは1人だけ!ほとんどの人は気にも留めず通り過ぎる…集まったお金は32ドルとちょっと。

 

Joshua Bell’s ‘Stop and Hear the Music’ metro experiment | The Washington Post

最も美しいはずの音楽が目の前で演奏されていても、忙しい現代人は気づかずに通り過ぎてしまう。

普段の日常で、見過ごされてしまうような ありふれた普通の景色が
過ぎ去ってしまった後に、それがかけがえのない幸福な日々だったと気が付くように

 

私たちは、感じる事が出来ているだろうか?
それが 幸せな一瞬の出来事であることを・・・

それが 過ぎ去ってしまう、ともう二度と同じ時間を同じ景色をみる事が出来ないという事を・・・

何気ない景色も、少しづつ 少しづつ 遠のいていき
やがて、その日常は失われてしまうという事を・・・・

予期せぬ状況の中が起こる前に、私たちは 何気ない日常の中に幸せを感じて味わう事が出来ているだろうか?

それが 幸せな一瞬の出来事であることを
それが 幸せな一瞬の出来事であることを

私たちは他にどれだけのものを見逃しているのだろうか?

人生最期の日の未来のあなたより

 

看護師がホスピスで、死を前にした人々の後悔の言葉を記録

1.他人がどう思うかなんて気にしなければよかった。

2.もっと幸せを噛みしめて生きればよかった。

3.もっと他人のために尽くせばよかった。

4.あんなにくよくよ悩まなければよかった。

5.もっと家族と一緒に時間を過ごせばよかった。

6.もっとひとにやさしい言葉をかけてやればよかった。

7.そんなに心配しなければよかった。

8.もっと時間があったなら。

9.もっと冒険して、思い切って生きればよかった。

10.もっと自分を大切にすればよかった。

11.他人の言うことよりもっと自分の直感を信じればよかった。

12.もっと旅に出ておけばよかった。

13.あんなにがむしゃらに働かなければよかった。

14.一瞬一瞬をもっと大切に生きればよかった。

15.子供たちに好きなことをさせてやればよかった。

16.最後に言い争いをなどをしなければよかった。

17.自分の情熱に従えばよかった。

18.もっと自分に正直に人と接すればよかった。

19.あのとき、本音を言ってしまえばよかった。

20.なにかひとつでも目標を達成すればよかった。

1000人の死を見届けた大津秀一医師
「死ぬときに後悔すること25」(致知出版社)

1.健康を大切にしなかったこと。

2.たばこをやめなかったこと。

3.生前の意思を示さなかったこと。

4.治療の意味を見失っしまったこと。

5.自分のやりかたをやらなかったこと。

6.夢をかなえられなかったこと。

7.悪事に手を染めたこと。

8.感情に振り回された一生を過ごしたこと。

9.他人に優しくなれなかったこと。

10.自分が一番と信じて疑わなかったこと。

11.遺産をどうするかを決めなかったこと。

12.自分の葬儀を考えなかったこと。

13.故郷に帰らなかったこと。

14.美味しいものを食べておかなかったこと。

15.仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと。

16.行きたい場所に旅行しなかったこと。

17.会いたい人に会っておかなかったこと。

18.記憶に残る恋愛をしなかったこと。

19.結婚をしなかったこと。

20.子供を育てなかったこと。

21.子供を結婚させなかったこと。

22.自分の生きた証を残さなかったこと。

23.生と死の問題を乗り越えられなかったこと。

24.神仏の教えをしらなかったこと。

25.愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと。

死を前にして本気で後悔することとは?
ナースのBronnie Wareさんの著書にある「人が亡くなる前に後悔する5つのこと」

01.人の期待に応えず、もっと自分らしく生きればよかった

02.あんなにガムシャラに働かなくてもよかった

03.自分の感情をもっと表に出せば良かった。

04.もっと友達と連絡をとればよかった

05.もっと自分の幸せを追求すればよかった

【BOSSが敬愛する95歳の世界的コンサルタント時間は最も乏しい資源】

ピータードラッカー
ピータードラッカー

もう一度人生を
やり直せるなら・・・

今度はもっと
間違いをおかそう

もっと寛ぎ
もっと肩の力を抜こう

絶対にこんなに
完璧な人間ではなく

もっと、もっと
愚かな人間になろう

この世には、実際、それほど
真剣に思い煩うことなど
殆ど無いのだ

もっと馬鹿になろう
もっと騒ごう

もっと不衛生に生きよう

もっとたくさんのチャンスをつかみ
行ったことのない場所にもっとたくさん行こう

もっとたくさんアイスクリームを食べ

お酒を飲み、豆はそんなに食べないでおこう

もっと本当の厄介ごとを抱え込み
頭の中だけで想像する厄介ごとに出来る限り減らそう

もう一度最初から
人生をやり直せるなら

春は
もっと早くから裸足になり

秋は
もっと遅くまで裸足でいよう

もっとたくさん冒険をし

もっとたくさんの
メリーゴーランドに乗り

もっとたくさんの夕日を見て
もっとたくさんの

子どもたちと真剣に遊ぼう

もう一度人生をやり直せるなら・・・

だが、見ての通り
私はもうやり直しがきかない

私たちは人生をあまりに厳格に考えすぎていないか?

自分に規制をひき

他人の目を気にして

起こりもしない
未来を思い煩っては
クヨクヨ悩んだり
構えたり
落ち込んだり・・・

もっとリラックスしよう

もっとシンプルに生きよう

たまには馬鹿になったり

無鉄砲な事をして

人生に潤いや活気
情熱や楽しさを取りも出そう

人生は完璧にはいかない
だからこそ、生きがいがある

~ピーター・ドラッカー~

人生は短い。

恨みを持ち続けることは
自分の幸せを妨げる。
謝るときには謝り
手放せることは手放すそう。
一か八かやってみること。
自分の人生に賭けてみよう。
自分の全てを捧げて
後悔しないこと。
人生は短い。
不幸になっている暇がない。
いいことも悪いこともおきる。
悲しいときは笑って。
自分に今あるものを愛し
自分にあったものを忘れないで。
忘れずとも必ず許すこと。
自分の間違いから
学ぶことはたくさんある。
後悔しないこと。
人は変わっていく。
物や状況もしかり。
でもいつも覚えていて。
何が起ころうとも
人生は続いていくということ。
愛す。
放す。
許す。
後悔。
~藤誠志~

 

人生のどん底は何回もやってくる。

BOSSのどん底は6歳の時に母親が亡くなった事。

そこから泣きの人生がスタートした。

転校は小学校で5回した。

バリバリの宗教2世で、カルトではなかったけれど義母が来てから宗教の教える理想の世界と実生活の地獄のようなギャップが生き辛さ増し増しにした。その生き辛さを解消するために4万冊の本を読み1億以上もかけて

生き辛さを解消する方法を探し求めた。、大人になりそれなりに成功もしたけれども

沢山 傷ついた、ボロボロになりズタズタになっていた。

もちろん、自分も知らずに傷付けたこともあっただろうけれど

助けが必要な人には助けたんだけれどもね。

助けても助けてもらえなかったり、裏切られたり

幸福に暮らすことが最高の復讐である。byスペインのことわざ

泣くな、復讐しろ。最高の復讐は幸せな人生を送ることだ。byアイルランドのことわざ

そう、復讐するより自分が幸福になることが最大の復讐なんだと。

復讐は既に完了しています。

だって今は幸せなのだから。

多分、他の人から見たら そうとは言えない事も沢山あるでしょう。

人との比較からは不幸しか生まれないって事も学びました。

だから、辛いことも沢山あったし、どん底のどん底も何回も経験したけれども

それでも、幸せだと言える自分でいる事が出来る事は、やはり最大の復讐だと思えます。

最高の復讐だ!幸せでいる自分でいられること程 気持ちが良いことはないのだから。

 

 

死んだら終わりと思っている人、その考えで大丈夫ですか??

誰も死んであの世から帰ってきた人はいないのだから、死後の世界の事は誰にも分らないと言われています。※BOSSは40年ほど臨死体験者の研究を行ってきました。ですので、医学的にも科学的にも死後の世界があると確信しています。

死への恐怖や不安は、人間の生存本能を脅かすものです。

死を回避する事が脳の最大の使命ですから、脳はこの使命を果たすべく死を回避する行動を最優先します。

100%の確率で人間は死ぬのですが、問題はいつ死ぬかです。

死ぬことは誰にでも必ず訪れるものですが、それがいつ起こるのか?それが最大の問題です。

脳にとっては、わからない事、不明な事に対して、不安や恐怖心を持ちます。

わからないもの、未知なものは 危険極まりないからです。

不安や恐怖は、身の安全を確保する上で必要な本能です。

人類は危険な動植物が身近にある中でも生き延びてこれた術を、本能というシステム1に何百万年もの長い歳月をかけて蓄積してきたのです。

死後の世界の事は分らない未知の世界故に、死への恐怖や不安が生存本能を脅かし危険であると脳は認識します。

死への恐怖や不安を抱いたまま日常生活を平穏に過ごす事を可能にするしているのが、次の2つのバイアスのお陰です。

正常性バイアスとポジティビティバイアスが死への恐怖と不安を隠す役割を果たします

正常性バイアス 非常事態が起こった時に「大したことじゃない」と落ち着こうとする心の安定機能のようなもの。
日常生活では、不安や心配を減らす役割があります。
しかし、緊急事態では逃げ遅れなど、危険に巻き込まれる原因にもなります。311においても、津波警報がなって避難指示が出ていたのにもかかわらず、避難しなかったために津波に飲まれた人たちが多数亡くなりました。

非常時は、本能と直結しているシステム1が働き危険を回避する生存本能が働くのですが
それは、目の前の出来事に柔軟に対応するという頭を働かせるシステム2では時間がかかるため、
先入観や偏見を働かせて(システム1)「事態は正常の範囲」だと自動的に認識する心のメカニズムのこと。
「まだ大丈夫」「自分だけは大丈夫」「今まで問題なかったから今回も大.丈夫」
という勝手な思い込みにより、安心しようとする自身を正常に保つための防衛本能
人は皆「自分だけは死なない」と思っている。

ポジティビティバイアス(人間は自身の期待に沿う【ポジティブ】な情報に対しては注目しますが、
期待に沿わない【ネガティブな】情報は無視する傾向があります。

システム1システム2 アンコンシャスバイアス

脳の情報処理の特性から生じる危険な【アンコンシャスバイアス】

死んだら全て無になるのに、生きるために頑張って努力する意味は果たしてあるのか?

「ー現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在しないとされている。」(wikipediaより引用)

物理的に何も無い空間を真空と物理学では言います。
無であるはずの領域から電子と陽電子のペアが自然発生することが確認されています。

シュウィンガー効果
シュウィンガー効果

Schwinger effect
科学者チームが驚くべき発見を発表しました – 彼らは何もないところから物質を作り出すことができたということです.
Big Thinkのレポートによると、この実験は2022年1月に実施され、単純な実験室で強い電場が作成され、粒子と反粒子のペアを作成。 ただし、物理法則によれば、真空の空間は存在しないことに注意してください。粒子がなくても、量子場は存在します。

Big Thinkによると、最新の実験により、70 年前に共有された理論が正しいことが証明されました。
場の量子論の創始者の 1 人であるジュリアン シュウィンガーは、宇宙はゼロから何かを作ることができると提唱しました。

シュウィンガー効果とは、強い電場によって物質が作られる現象を予言した理論です。予測モデルは、電場の存在下で電子-陽電子対が自発的に生成される量子電気力学  に由来します。

マンチェスター大学の研究者による最新の実験は、科学者が宇宙がどのように無から有を生み出すことができるかを理解するのに役立ちます。この現象への関心は、研究者がビッグバン理論の研究を開始したときに始まりました。
これは、私たちが知っている宇宙の創造につながりました。

https://www.gadgets360.com/science/news/scientists-claim-to-create-matter-from-nothing-prove-schwinger-effect-correct-3357387

There is something in nothing 何もないところに何かがある

https://gendai.media/articles/-/37270?page=2

「ヒッグス場」は、真空に起こった〝異変〟の結果、全宇宙にわたってその空間を満たす「新たな構造」として誕生しました。100%観測不可能であるヒッグス場が存在しようがしまいが、真空は相変わらず真空のままです。ところが、真空のきわめて狭い領域に人為的に巨大なエネルギーを〝注入〟してやると、ヒッグス場は揺さぶられ、振動を起こします。その振動が粒子となって真空から叩き出されたものが、他ならぬ「ヒッグス粒子」だというのです。

質量を生み出し、力を伝え、無限大のエネルギーがざわめく──真空には、謎めいた〝構造〟が備わっています。もし真空に何の〝構造〟も存在しなかったなら、この宇宙には銀河も人類も発生しなかったことになります。https://gendai.media/articles/-/37270?page=2

ビックバン
現在の宇宙誕生の理論では、次のように考えられています。

宇宙は「無」から生まれたとしています。「無」とは、物質も空間も、時間さえもない状態。しかしそこでは、ごく小さ な宇宙が生まれては消えており、そのひとつが何らかの原因で消えずに成長したのが、私たちの宇宙だというのです。
また生まれたての宇宙では、時間や空間 の次元の数も、いまとは違っていた可能性があります。ある説によれば、宇宙は最初は11次元で、やがて余分な次元が小さくなり、空間の3次元と時間の1次 元だけが残ったのだといいます。

宇宙が誕生した直後、大量の物質と反物質が作られた。そして物質と反物質はお互いにぶつかりあい、対消滅して消えた。
しかし、そこに何らかの「わずかなゆらぎ」が起こり、10億分の1程度の比率で物質のほうが多くなった。そのため、対消滅した後も10億分の1程度の物質が残ることになり、星や銀河が作られた。

つまり、宇宙誕生直後は、現在の10億1倍の物質と10億倍の反物質、あわせて20億1倍ものモノがあったのに、そのほとんどが対消滅で失われてしまい、対消滅を免れた物質(当初の20億分の1)だけでこの宇宙が構成されているということです。宇宙の始まりは、まだ多くの謎につつまれています。

宇宙の本質的な状態とは「無」ではなく、「有」なのです。

現代物理学によると,真空はただの「からっぽの空間」などではありません。空間から物質をすべて取り除いても、〝発生源のないエネルギー〟が取り残されてしまうのです。

また,真空それ自体が,劇的にその状態を変化させるといいます。真空という「無」であっても、そこには時間、空間、物質を生み出しうる「何か」を生み出すエネルギーのゆらぎに満ち溢れここかしこに存在しています。

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』ゴーギャン

なぜ、死ななければならないのか?

 

生物がなぜ死ぬのかというと
これは進化のためなんです
死がなぜあるかではなくて
死ぬものだけが進化して
いま生きているんですよ

「死」は人生の終わりでゴールですけども
進化の中では進化の始まりであり
進化を動かす原動力なんですよ

我々が存在する理由が
先人あるいは他の生き物も含めた
地球上にこれまで生きてきた
全ての生き物の「死」の結果として
最終産物である我々の「生」がある


こっから先は
進化を決めるのは人の意志かなと

東京大学定量生命科学研究所教授
小林武彦

 

目的地を知らないまま、何十年にも渡る旅に出かけるという事を想像できますか?

死がゴールであるとするなら、何の目的があって生まれてきたのか?

本当に死がゴールなのか?

世界の宗教観と日本人の宗教観は違う

一番の違いは、日本人の宗教観は文化的に根付いているもので、宗教であるという意識が薄いという事。

「命をいただく」という仏教的な考え方から、食事の前に手を合わせて『いただきます』と言う。

命をいただく
命をいただく

年長者を敬い祖先を崇める風習には儒教、自然やモノにも神が宿るという考えには神道の考え方が影響している。「既に日本に根付いていた自然信仰と八百万(やおよろず)の神」の神道的な考え方が融合したと考えられます。

この自然信仰、自然の恵み、命を頂くという仏教的な感覚も相まって、夏祭り、秋の実りを祝うという形で発展してきました。

お祭りといえば、ハロウィンもお祭り騒ぎでニュースに毎年でてくる行事になりました。その起源は、紀元前のケルト民族にまでさかのぼります。

ハロウィン
ハロウィン

古代ケルトでは11月1日が新年で、前夜の10月31日から、秋の収穫物を集めた盛大なお祭りが開かれました。 またこの日には、死後の世界との扉が開き、先祖の霊が戻ってくるとも信じられていました。

またこの日には、死後の世界との扉が開き、先祖の霊が戻ってくるとも信じられていました。
日本でいえば「大みそか」「秋祭り」「お盆」が一度に来るようなものだったのです。

ハロウィンには、先祖の霊だけでなく、悪魔や魔女、さまよえる魂なども死後の世界からやってきます。人々は、それらと同じ格好に仮装して仲間だと思わせ、身を守りました。魔女や悪霊の仮装やメイクは、現在でも定番中の定番です。
その後ケルト民族はキリスト教化していきますが、祝祭の習慣は残り、キリスト教会が11月1日を「諸聖人の日」を意味する「All Hallo」と定めたことから、その前夜=「All Hallo Eve」 が転じて、ハロウィンと呼ばれるようになったと考えられています。

クリスマスを盛大に祝うのはキリスト教の影響というよりも、ケンタッキーや不二家のケーキなどの商業的なマーケティングの影響かもしれませんが・・・・・・キリストが生まれたのが何故めでたいのかわかっている人は殆どいないと思います。

クリスマス
クリスマス

新年になって、お正月に初めて神社やお寺、寺院に「初詣」する
という節操のないのも日本人の宗教観が文化的な意味が強いことが伺い知れます。

初詣
初詣

ほとんどの日本人はこれらを宗教的な意味合いよりも、文化的な行事として取り込み、道徳的な意味合いが宗教的な意味合いよりも強い印象があります。

そういう意味で、仏教や自然神道を道徳的なニュアンスで日常的に取り入れてはいるが、それが宗教的な意味合いで信仰しているという自覚も理解もしていないのが日本人の宗教観であるのではないかと思います。

日本人の代名詞として、お辞儀をするというのがありますが、これも礼儀作法としての挨拶ですね。

礼儀作法は、誰もが知っている聖徳太子の「十七条の憲法」だといわれています。 この十七条の憲法は当時の貴族や官僚に向けて、和の尊さを説いたものでした。 そこから、朝廷や貴族、武家などでの行事や儀式などでの礼儀作法、所作が生まれていき、「形」が大切にされていくようになりました。
聖徳太子の「十七条の憲法」

聖徳太子の「十七条の憲法」特定の宗教や団体に属しているわけではないので、固有の神の存在を否定するほどの知識ももこだわりもない日本人としての実態が『自分は無宗教』であると言わしているのかもしれません。

でも、海外の人たちから見ると、とても無宗教であると日本人の事は見ていないと思われます。

世界の宗教観と日本人の宗教観は違って、海外での神や宗教ってのは一般に文化ではなく真理であって、相対的ではなく絶対的な存在、特に一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)にとっては唯一神であって他宗教の神は邪神であるという排他的な傾向が強くなります。これ故に聖戦などの戦争が他宗教間で起こったりするわけです。

日本人にとって「私は無宗教です」とは、相手の神の存在を否定することになるので、日本人的な意味での無宗教とは話が噛み合う事はありません。
ニュアンスが全く違います。

宗教観が文化的なレベルまで薄められてしまっている日本人はそこまで考えが到底及ばないため安易に無宗教デスを公言してしまいます。

宗教施設はコンビニの3倍です。これでも日本人は無宗教だと言えますか?

でも日本を訪れる海外の人たちには、神社やお寺などの宗教施設があちこちにあるから日本人は宗教心がある、信心深いと映っているのではないかと思われます。
文部科学省の宗教統計調査(平成28年12月31日現在)の神社、寺院、教会のデータによると神社の数は8万1,158。 寺院は7万7,256。 両者合わせると15万以上、コンビニの5万よりも3倍も多いんです。
日本人の大半が無宗教であるという宗教的立場が理解できません。当たり前ですが・・・・。

何のために生まれてきたのか?

それが分からずに、人生の目的を達成する事は不可能です。

人生の目的知ってる?11月19日更新

 

人生の目的がお金でないとしたら、
あなたは
なにをしているのか?

人は誰もが幸福になりたいと願います。

そして、幸福になるためには成功する事が必要だと教育されてきました。

しかし、それは誤りであることが心理学者によって証明されています。

「不公平にならないように、みんなには同じテストを受けてもらいます。さぁ後ろの木に登りなさい」
「不公平にならないように、みんなには同じテストを受けてもらいます。さぁ後ろの木に登りなさい」

“Everyone is a genius. But if you judge a fish by its ability to climb a tree, it will live its whole life believing that it is stupid.”
「みんな本当は天才なんだ。でももし魚が自分の能力を木登りで判断されたなら、その魚は一生自分のことをバカだと思い続けるだろう。」アインシュタインが言ったと言われているが違うらしい。

木登りがうまいサルだけが成功する世の中ではありません。

ゾウやカラスやペンギンも多様性という世界の中で、それぞれが成功できるほど世界は広いのです。

物理的な限界をネットの発達によって簡単に越える方法を人類は手のしました。海外にわざわざ出なくても、今いる場所で多様性の世界で成功する事は可能です。

今いる場所で多様性の世界で成功する事は可能です。
今いる場所で多様性の世界で成功する事は可能です。

アインシュタインの信じた神 

時は金なりではないし、可能性は無限大ではない

「時は金なり」は、「時間はお金と同じように貴重なものなので、無為に過ごすことなく有効に活用しよう」ということを意味で使われたりします。

Time is Money
Time is Money

「時は金なり」の語源となった「Time is Money」の本来意図する意味は、「機会損失」という概念です。
機会損失とは「チャンスロス」や「儲け損ない」とも呼ばれ、実際に出た損失とは意味が異なり、行動起こしていれば獲得する事が出来たチャンスや結果を出せた状況で、取るべき行動を取らなかったことによって生じた、架空の損失のことを指す概念です。

アメリカ合衆国建国の父 ・ベンジャミン・フランクリン氏が著した本 『若き商人への手紙』の中にある 「Remember that time is money』という記述が「Time is money.」の元とされています。
根拠として、『フランクリン自伝』に自らの信念を十三の徳目として記した6番目の項目にも、「勤勉時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし」と書かれてあります。

「時は金なり」とは、時間の大切さを意味することわざです。誰にとってもお金は大切なものだと思っています。しかし、お金と違って時間についてはその大切さを忘れがちになります。
誰しもが、頭では時間は大切だと理解しているものの、スマホで動画をダラダラを見続けるなどで時間を浪費しても時間が無くなった感覚がお金が無くなるのと違いゼロになるわけではないので大切さをお金程あまり意識していないからかもしれません。

待ちわびた週末であったとしても、何をしていたか分からないまま時間を無駄に過ごして、何もしないまま休日が過ぎてしまった時に後悔してしまうものです。

利益を得る機会があったのに、それを得ることができなかった状態が機会損失です。ビジネスでは、商品の在庫切れが機会損失の分かりやすい例でしょう。商品に対して需要があったのに、在庫がなくて販売できないということは、その需要の分だけの売上を失ったということになります。「Time is Money」の概念とは、時間の使い方にまで機会損失の範囲が及ぶものである事が分かります。

時間の使い方における機会損失とは?
例えば、休日にダラダラと過ごしたり、ネットサーフィンで一日を浪費してしまったとします。日本の「時は金なり」の視点で考えれば、この一日はただの浪費です。浪費は時間を無駄に消費したという時間の損失に留まるのに対して、「Time is Money」の考え方では、ネットサーフィンをしたり、ダラダラして過ごした一日は機会損失だと考えられます。仮にその時間に副業をしていたら、その時間で1万円の利益が上がったかもしれません。また、1万円を投資して勉強会やセミナー、資格取得の勉強に費やしたりしていたら、その後の収入が何倍にも変わるかもしれないので、ダラダラ時間を垂れ流しているだけでは、成長も成功の機会もみすみす失っていると言えるわけです。

このように、「Time is Money」とは、利益を得られる機会があったのに、その機会を別のことに使って逃したことになるのです。そして、その機会も時間も二度とは返ってきません。「Time is Money」には厳然たる意味が込められているのです。

「Time is Money」という概念は日本語の「時は金なり」の時間にはない視点から、時間を自身の成長や成功を生み出す貴重なリソースであるという本質的な時間の使い方を教えてくれます。

「時は金なり」では、時間とお金は同じように大切であると同列な扱いですが、「Time is Money」の概念では、お金よりも時間の方が明らかに上の扱いです。
何故なら、お金は失っても取り戻せますが、時間は失えば取り戻すことは不可能だからです。

失われた時間は取り戻すことはできない。

つまり失われた時間は成功や成長の機会であるチャンスを失うことと同じだから、お金よりも重い、機会損失という概念が時間に含まれているのだと思います。

そして、時間が失われる=成長や成功の機会が失われるという俗物的な観念よりも
時間を失う事は、自分自身の命の時間が削られていく、消えていく事そのものであるという
時間の概念を広い視点から抽象度を上げた見方を持っているように思います。

ベンジャミン・フランクリンはクリスチャンであり、キリスト教的な死後の天国の世界を信じているために、自分の命の時間は有限であるという認識が、日本人の時間の感覚とは異なったものが含まれていたのはある意味、文化的な背景も含めて違って当然であると思います。しかし、是非とも参考にしたい死生観でもあります。

時間は命そのものである、お金よりも大切であるという価値観を身に着けることは生きるうえで優先順位が上位にくる大切な考え方であると思います。

もちろん適度な休憩や休暇は心身の健康や、家族や友人との良好なコミュニケーションを取るうえでも必要な事です。身体や心が消耗しきったりストレスにさらされた状態では、良い仕事も豊かな人生も過ごせません。無理をし続けて勉強に時間を費やすより、休むという選択肢を意識的に取り入れて、メリハリをつける方ががむしゃらに取り組むよりもより良い結果を残せます。

時間に流されるのではなく、主体的に自分の命である時間を自分自身の価値観に照らし合わせて選び、使うという意識を持つことで人生をより実りあるものにする事が可能になるのだと思います。

可能性は無限大ではない

無限大infinity

個人的には、可能性は無限大という考え方が嫌いです。

理由はコンテンツ中で説明していきます。

可能性は無限大ではない事は、上の「時は金なり」をキッチリ理解していれば、わかる事ですが

違った視点・視野から説明していきたいと思います。

可能性とは、それが可能だという性質・度合についての事。

可能であるという度合いとは、高いか?低いのか?

何パーセントの可能性があるのか?

という達成の度合いを〇〇%の可能性などで表現される事が多い。

無限大とは、「どの実数よりも大きな数」の事だと思いますが、無限大とは特定の数を表しているわけではなく、「いかなる数よりも大きい状態」を表している言葉。

いかなる数よりも大きい状態とは?数そのものではなく、もはやそれは状態としか表現できない抽象的な世界。

意味的には似ているけど、無限という言葉と、永遠という言葉の意味の違いで考えてみると多分わかりやすくなります。

無限は数や量、大きさを表す計測可能な値を超えた抽象的な状態を指す。

永遠はおもに時間を軸としたこれも、計測可能な値を超えた抽象的な状態。量子重力理論では時間自体が存在しないという理論もあるぐらいですので・・・。どちらも抽象的な状態を示す言葉ですが、無限大は数や量などの大きさで3次元的かな?永遠は時間の限りがないけど4次元的な・・・どちらを無限大と永遠という超えた状態の事ですが・・・次元的なという表現で曖昧にしておきます。

ニュアンス的な意味合いからすると、可能性大はどんな数字でも表現できない大きい状態の事。

あなたの可能性は100%と表現すると、100%を限界とするけれども

その可能性が無限大であるのだから100%を遥かに超えている。

つまり、可能性には限界がないぐらいの状態的なみたいなニュアンスでしょうか?

数字の限界を超えた状態があなたの可能性の中にあるみたいなニュアンスですかね?

数字に表す事が出来ない状態だから、抽象的でふわふわした夢心地の未来を

ぼんやりと思い描かせ無用な希望を抱かせるにはくにはもってこいの表現なのかもしれません。

大人が子どもや就職前の若者に、希望を抱かせ厳しい現実を生き抜く知恵を授ける手間を省くにはもってこいの言葉ですし、自己啓発やスピリチャルの商売にはフワフワしたイメージはもってこいですね。

やれやれ

この無限大がクセモノ

時間軸では私たちは有限の存在です。

生まれてやがて必ず死を迎える事が100%確定しいます。

しかし、無限大でるため可能性という数字を超えた状態の世界では無限以上だという主張です。

有限の存在の無限以上の可能性がなんだかしっくりとこない、違和感の正体かもしれません。

これは有限と無限以上が共存する事自体が矛盾していると考えられるからですが、可能性が無限以上であるという事の否定を残念ながら証明することは困難です。

これは、数字や科学の範疇を超える哲学や思考の範囲であるからです。

可能性は無限以上という考え自体が証明困難な為、その可能性が成立するしないではなく、信じるか信じないかの世界の話になります。※悪魔の証明により

悪魔の証明
悪魔の証明

つまり、証明できない世界の話は、信じるか信じないかの選択に任されるのです。

では、可能性が無限大であるという世界の話を信じるとすると

たちまち無限よりも大きな可能性の世界に放りこまれる事になります。

可能性は無限だから、では、選び放題かというと現実的に、そういう訳では決してなくて、無限故に、選べない、選択肢がありすぎる故に思考停止状態に陥る。

選択肢が多すぎると選べない。選んでも他の可能性にばかり目が行って、選んだ事に集中しきれない、他のパラレルワールドの世界が気になるみたいな・・・。

無限や永遠をキチンとイメージできれば話は違うのかもしれませんが、無限や永遠なんてこういうものだと具体的に思い浮かべる事すらできないため無限の可能性と言われても、ピンとこない役に立たない言葉と思うのです。

学生に『あなたの可能性は無限大』なんて言っても、どこの大学の何の学部でというポジションで入れる会社は限定されるし、学部によって医者や法律家(弁護士・裁判官)になれないことは自明だったりします。学歴不要な世界だと言われても、現実はそうではないし、40代50代になれば学歴や職歴があっても一度レールから外れると、ハイレベル人材出ない限り、簡単に就職する事が出来ないという相談は沢山受けたりするので現実と随分乖離している感じがします。60代70代の仕事と言えば肉体労働(清掃業務など)人が嫌がるような仕事が多いようです。定年後同一人物同一労働であっても再雇用されると安い給料しかもらえず、70過ぎて働いている人たちの8割は会社役員か自営業者であるという統計もあります。

就労希望年齢
就労希望年齢

どの年代においても、可能性は無限大であるとは言えない現実の相談を沢山受けたりするので、現実にあまりそぐわない『可能性は無限大』という言葉が嫌いなのかもしれません。

※『可能性は無限大ではない』のコンテンツは追加される文章があります。

夢をもて、目的をもて、やれば出来るこんな言葉に騙されるな

何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬこれだけでたいしたもんだ
ビートたけし

情報は役立てる能力があって初めて価値を持つ(意味がある)

地球

データ 情報 知識 洞察 知恵 陰謀論的な違いを分けて考える

情報に価値はない 価値があるのは知識であり、情報を役立てることが出来る能力が知恵。

あなたが何かを達成するために
全部を知っている必要はない。

自分が何を達成したいと思っているかさえも
何をやりたいと思っているか自分で理解していなくても
問題ない。

自分がやりたいことを理解し、達成したい事がわかるようになる。

何を本当はやりたいのか?
何を本当は達成したいのか?

目的を達成するために必要な情報だけを教えてくれる人がいればいいだけ。

鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが自らの墓碑名に刻ませた、
"おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男ここに眠る"
との言葉ほど大きな自慢はない。
これほど成果をあげるための優れた処方はない。

ピーター・ドラッカー

アンドリューカーネギー 墓碑銘
"おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男ここに眠る"

必要の無いことを学ぶことはないし、時間をかける必要もありません。

つまり、無駄な事を知る必要はないし、自分に何が必要かさえても知らなくてよい。

その都度、必要な事だけを教えて貰える人が要れば良いのです。
情報に価値がないのは、情報だけあってもその情報が何に役に立つのか?を理解していないと、情報は意味をなさない、つまり、情報は役に立つ事によって、価値を生み出すことが出来て初めて情報を知る事に意味があることになります。
役に立つ情報が価値のある知識に昇格するのです。

価値を生み出すのは、その情報が何に役に立つのか?

何に使えるのか?

情報は役立つものに使ってこそ、初めて価値を生み出す事ができる。

役に立たない情報と役に立つ情報を分けることが出来るのが知恵。

ビジネスでは、誰もが情報と知識を混同し続けている。それらは異なるものだ。辞書でさえもそう言っていいます。
情報:物または人について提供されるまたは知らされる内容。
知識:経験または教育を通して獲得される情報と技術;あるテーマの理論的もしくは実践的理解。

知識は、全く別のものだ。情報が分析と経験と組み合わさった時に得るものだ。知識は、行動に集約された情報だ。それは、お金、もしくは時間、もしくは他の何かを犠牲にすることがあるし、犠牲にするべきです。

実際にあなたの利益を手助けすることを学ぶには、セミナーにお金を支払ったり、コンサルタントを雇ったりするのでしょう。
あなたは、知識に対してお金もしくは努力で支払わなければならない。これを理解しなければ、あなたは失敗することになります。

知恵情報を役立てることが出来る能力が知恵

観察力と洞察力との違い

洞察力 洞察力とは、「物事の本質を見抜く力」のことです。
観察はあくまで「表面的な部分を注意深く見る」という行為ですが、洞察は「物事の見えていない部分まで見抜く」という行為を指します。

陰謀論の問題点が一目でわかる

視点 視野 視座 目で見るものと心で見るものとは何か?

メタ無意識 自己啓発  自己肯定感 目的と目標 引き寄せ スピリチャルは間違いや詐欺だらけ!?

目的・目標と方向性がない場合 努力と勇気だけでは不十分である
ジョン・ F ・ケネディ

セルフイメージ【最大の制限と最高の力の秘密】

 

セルフイメージは見えない自分を映し出す鏡のようなもの

それは、見えないけれども、あなたの人生の地図を作り上げているものです。

人生は自分のものだと思っているかもしれませんが

そもそもセルフイメージ自体が親や社会の価値観で作られているものですから

他人の人生を生きていると言えます。

親や社会の価値観を超えること自体が、コンフォートゾーンを超える事を意味していて

それが、自分自身のセルフイメージに作り替えるという事になります。

自分自身のセルフイメージが他人からの評価によって作られているという事が

自分自身の価値感ではなく、他人の価値感を自分の価値観であると思いこんでいたという事でもあり訳で、この思い違いが、ある人にとってはいきづらさの原因であったりするわけです。

セルフイメージは見えない自分を、他人の評価によって理解できるようにしたもので

見えない自分を見るために、自分自身が何を望んでいるのか?

どういう自分になりたいのか?などを自分自身が理解することにより、見えない自分を

見える化していく作業であると言える。

自分のやりたいことが分らない、自分の夢が分らないのは

他人の価値観をもとにしたセルフイメージのままであるからであり、

他人からの評価基準であったセルフイメージをしているから。

セルフイメージの秘密

 

人生を最も簡単に、しかし劇的に変化させる事を可能とするのはセルフトークを変える事。

セルフイメージとセルフトーク

自己イメージとは人生の設計図が描かれているプログラム

セルフイメージと潜在意識(無意識脳)

 
 

仏陀は何を悟ったのか?

悟るための、苦行には意味がないという事を、苦行を極限まで行う事で理解し、仏陀は苦行を止めて、川に入り身体を洗って出ようとしたが長い苦行で衰弱しきって川から上がることが出来ずにいたところ、女(スジャータ)に乳粥の布施を貰い、川を上がりました。

5人の弟子たちはこの一部始終をひそかに見ており、

「ついに苦行に耐えきれず堕落した。修行者にとっては大蛇よりも恐しいといわれる女人から乳がゆの布施をうけた。あんなことでは絶対、さとりなど得られるものではない。
あんな堕落者と一緒にいたら、われわれも一緒に堕落してしまうぞ」と隣国へと逃れたとあります。

しかし、違う方法で悟りを開くためにに菩提樹の下に静かに座り、悟りを開くまでここを立たないという覚悟の後に究極の悟りを開き仏陀となったとされています。苦行をして、苦行には意味がないと悟ったから、究極の悟りを開いたのか?

それとも、苦行をした後に、悟るまでここを立たないとして座っていたから悟りを開いのか?

どっちだろう?

※このコンテンツは更新中で修正加筆されます。